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*配付資料 |
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(1)4月11日号はまかぜ新聞ゲラ刷り |
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連載「ぺり−来航150年 開国の街・横須賀」第1回記事 |
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(2)2月28日付け日本経済新聞記事 |
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*回覧資料 |
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(1)ハイネ・ペリー久里浜上陸図(横須賀市自然・人文博物館所蔵) |
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*配付資料と回覧資料でお解りのように、1853年7月14日(嘉永6年6月9日)に、ペリーが久里浜に上陸した。 |
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久里浜に来た黒船は2隻、上陸したアメリカ人は約400人、絵のタイトル「FIRST LANDING…」(絵に当日の日付) |
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開国、近代日本への歴史はここから始まった。 |
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*ペリー艦隊の来航は6日前の7月8日(6月3日)、目標は奉行所のあった浦賀。 |
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黒船4隻のうち蒸気船はサスケハナ(2450トン)、ミシシッピー(1692トン)、 |
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他に989トンと882トンの帆船2隻。日本では最大の千石船が100トン程度で「島が動いたように」見えた。 |
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蒸気船の建造は1807年に初めて河川用の船が、1819年に外洋船が建造された。 |
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久里浜へは帆船2隻が風がなく付いてこれなかった。 |
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*ペリーは、鎖国をまもる江戸幕府に対し、開国と通商を求めるフィルモア大統領の親書を幕府の責任者へ渡し、 |
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その回答を得るため来航した。 |
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アヘン戦争でイギリスに敗れて開国した清国と1844年に通商条約を結んだアメリカは、ペリー来航の7年前(1846年)、 |
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ビットル提督が軍艦2隻を率いて浦賀に来航、開国と通商を打診した。この時は、鎖国が国是(祖法)であり、 |
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異国との交渉は長崎以外ではしないと突っぱね、ビットルもおとなしく退去した。 |
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*アメリカでは、この時の弱腰外交が問題となり、ペリーは強腰で外交交渉に勝つ決意でやってきた。 |
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アメリカは1848年にはカリフォルニアまで領土を広げ、蒸気船で18日から20日で太平洋を横断できるようになったこともあり、 |
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対清貿易の拡大とその中継拠点として日本を開国させることが急務となっていた。 |
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*ペリー艦隊は浦賀来航時、4隻の黒船に積んだ大砲のすべてに砲弾を込め、砲窓を開き、臨戦態勢で鴨居沖に投錨し、 |
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番船でかけつけた浦賀奉行所の役人に、政府(幕府)の高官でなければ交渉もしないし、乗船もさせないと高圧的に出た。 |
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この時、とっさの機転で副奉行と名乗って旗艦のサスケハナに乗り込み、交渉の糸口を付けた浦賀奉行所与力の中島三郎助、 |
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2日目からニセ奉行になりすまして交渉を進めた同僚与力の香山栄左衛門など、体を張って外交交渉を行い、 |
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交渉決裂−開戦という最悪事態を避け、久里浜での親書受け渡しにこぎつけたのは、 |
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地元育ちの与力たちである。(通訳はオランダ語通詞の堀達之助、日本語−オランダ語−英語の二重通訳でやった)。 |
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親書授受を当初予定した浦賀から久里浜に変更したのは、浦賀には広い浜辺がなく、警備上問題があったため。 |
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*ペリー艦隊は、大統領親書を渡した後3日間、江戸湾の奥深くへ進んで沿岸の |
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測量を続け、来春親書への回答を求めに来るとメッセージを残して去り、翌年2月 |
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に艦隊を7隻に増強して再来航(最終的には9隻)、浦賀を通り越して横浜・金沢(小柴)沖に |
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投錨して交渉を行い、3月31日(旧暦3月3日)、現在の神奈川県庁の場所で、 |
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開国を決めた日米和親条約(神奈川条約)が締結される。 |
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この後幕府は、イギリス、ロシア、オランダと和親条約を結び、4年後の1858年 |
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(安政5年)にはフランスを含めた5カ国と開港・貿易を認める通商条約を結び、 |
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1630年以降の鎖国体制は崩壊。国内は開国か攘夷かをめぐって紛糾し、ペリー |
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来航からわずか15年で幕府は倒れ(大政奉還)し、日本は欧米文明を受け入れた |
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近代国家として歩み始める。 |
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ペリーの浦賀来航・久里浜上陸が開国・近代化の第一歩となったのである。 |
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*有名な「泰平のねむりをさますじょうきせん たった四はいで夜も寝られず」 |
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の狂歌は、後代、明治になってからの作ではないか。 |
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2月23日に横須賀で行われた開国史後援会での明海大・岩下哲典助教授によると、 |
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幕末の書籍・資料には、似たような狂歌はあるが、「泰平の」の狂歌は出てこない。 |
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明治11年に書かれた「増補武江年表」の嘉永6年6月の頃に初めて出てくるが、 |
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説明の記述から信用が出来ない。 |
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昭和59年発行の「江戸時代落書類聚」には、「泰平の」の狂歌が収録されているが、 |
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編者の矢野松軒なる生没年経歴不詳の人物が大正初期に収録してという江戸時代の落首の一つで、 |
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本当に幕末に詠まれたかどうか定かではない。 |
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岩下助教授は、江戸時代を、黒船に腰を抜かすような武士たちが |
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惰眠をむさぼっていた時代だと言いたい明治の人間がアレンジしたものではないかと見ている。 |
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(浦賀在住の郷土史家・山本詔一氏も同意見)。 |
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蒸気船という言葉を太田和の農家が知っていて日記に書き残している。(浜浅葉家文書)。 |
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*2月28日付日本経済新聞文化面に、横浜開港人形の一つとして「ペリー提督人形」 |
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のことを取り上げた寄稿原稿が掲載されている。 |
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昭和初期、「西の博多人形、東の横浜人形」と評判を呼んだ横浜開港人形の一つに「開港」の縁で |
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「ペリー提督人形」が作られ、上陸地・久里浜の土産物店で売られていたという。 |
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筆者に問い合わせたところ、ペリー上陸記念碑が建てられてから、遠足の小学生など見学者が増えた |
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ため土産物店ができ、故人である民芸品収集家がそこで買ったものが残っているという(紙面に写真を掲載)。 |
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自分がこれまで調べたところでは、その土産店がどこにあったかなど明かではないが、ぜひ突き止め、 |
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市内で保存している方がいれば探し出して「はまかぜ」新聞で記事にしたく、ロータリー会員の皆様の協力をお願いします。 |
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*横須賀製鉄所(造船所)の開設がもとで、フランス人技術者によるわが国最初の洋式灯台・観音崎灯台の建設、 |
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明治文明開化のシンボルと言われた銀座煉瓦街の設計・施工につながるレンガ建造物の建設など、 |
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開国ゆかりの横須賀には、日本の近代化を物語る文化遺産が残されている。 |
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ペリー来航150年にあたり、横須賀市民は自らの街の歴史を再認識し、もっともっと誇りを持っていただきたい。 |
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*石井行夫様連絡先 |
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はまかぜ新聞社港南支局 |
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TEL 045−833−5202 |
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FAX 045−833−5780 |
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