第1183回例会
2002年4月15日(月)
◎合唱 「それでこそロータリー」
◎ゲスト紹介 横須賀市立工業高等学校校長  吉原 謙之様
郷土史家  山本 詔一様
◎会長報告 *ガバナー事務所より、「第7850地区歓送会、第2780地区壮行会」開催通知受領。
*ガバナー事務所より、「地区協議会新会員部門の為のアンケート回答のお願い」受領。
◎幹事報告 *逗子RC及び葉山RCより、週報受領。

出席報告

会員 出席 欠席 本日の出席率 前週メーキャップ前  前週メーキャップ後
  41名 30名 11名 73.17% 58.54% 60.97%
◎メーキャップされた会員  

岡田忠男会員

小田原RC、GSE委員会、GSE歓迎会、三浦RC

鈴木弘明会員

三浦RC 
◎ニコニコBOX
永井 不士男君 藤原さん、西田さん先日は有難うございました。
掛田     侑男君 山本様、本日の卓話、よろしくお願い致します。
森     勇人君 山本様、卓話よろしくお願い致します。
三橋   仁男君 山本さん、卓話よろしくお願い致します。
藤田      武君 孫が幼稚園に入りました。
小山田 仁己君 山本さん、卓話楽しみにしています。
竹島   正毅君 卓話を楽しみにしております。
井上   祐一君 山本詔一氏を卓話者にお迎えして。
下出   博司様 有意義にご使用下さい。(先日の卓話料全額)

本日計 28,000円 累計 532,000円
◎卓話 郷土史家  山本 詔一様

1.

【吉井八景】
森崎夜雨 萱山晩鐘 久村釣舟 矢部晴嵐
城山観月 池田落雁 吉井夕照 佐原暁色
久里浜港へ注ぐ平作川の両岸の景勝を詠ったものですが、これも作者や成立年代がわかって
いません。
この地域は浦賀のかくれ里的な雰囲気をもっていた所であったが、工業団地や宅地開発が進み
八景の風情を残しているとろろは少ない。
そんな中「萱山晩鐘」は、佐原の慈眼院を詠んだものであろうが、慈眼院の建つ台地が茅山貝塚
として、県の史跡に指定されており、まだいくぶん風情を残しています。
吉井八景は、他の八景と違い、「久村釣舟」「佐原暁色」「城山(怒田城)観月」など独特の情景
を詠みこんでいます。
さぞ、怒田城の台地での月見の風情があったことでしょう。

2.

【竜崎戒珠】
江戸時代後期の地方文化人の一人、竜崎戒珠は現在の横須賀市池田町の人で、宝歴13年
(1763)に生まれています。幼名を広三郎といったようですが「、竜崎家の9代目を継ぐと、名を
九郎左衛門と改めました。
戒珠は当時、読み・書き・そろばんを教えた寺子屋の師匠も努めていたと推察され、このころ
すでに寺子屋が三浦半島にも浸透し、この地方の文化も高まりつつありました。
戒珠が83歳の時にしたためた「湯の沢温泉実験記」は、現在の阿部倉温泉の前身である
湯の沢温泉の由来と効用が記されています。
実験記を執筆してから4年後の嘉永2年(1849)、戒珠は世を去りました。
戒珠が地方の文人として活躍した時代は、地方の文化が、江戸の文化を吸収して高まりつつ
ある時代で、戒珠は、この時代を象徴する人物の一人でありました。

3.

【加藤山寿】
「三浦古尋録」は今から約180年ほど前の三浦半島の地誌をまとめた本で、私たちが江戸時代
の郷土の様子を知るうえで、貴重な一冊です。
この本の作者が加藤山寿で、西浦賀町在住の加藤勇さんの先祖に当たる人で、江戸時代の
後期の文化年間(1804〜1818)に活躍しましたが、誕生した日も、没年も不明です。
加藤家は「淡路屋」の屋号でも知られるように、江戸時代に淡路から移って来た豪商で、上方
(関西)方面から廻船で運ばれて来る塩、酒、日用雑貨などを扱って、手広く商売を行って
きました。
山寿は旅に出ることが多く、旅や自然を愛し、学問や芸術に人一倍の才能を有し、文化に対
しての情熱や関心の強さをよみとることが出来ます。
加藤家の菩提寺である吉井の真福寺に山寿の墓碑は見当たりません。
ただ、不滅の業績が燦然と輝いております。

4.

【葛飾北斎】

自らを画狂老人と称した、浮世絵師・葛飾北斎が天保5,6(1835、6)年頃に浦賀に住んで
いた形跡が認められます。
この頃の北斎は、70代の半ばになっていますが、「北斎漫画」や「富嶽百景」などがつぎつぎ
に出版され、押しも押されもしない、超一流の浮世絵師であったはずなのですが、なぜ浦賀に
それも隠れ住むような生活をしていたのでしょうか。
何人かの人が、浦賀に住むようになる理由を推測しています。
北斎の子、阿栄の子どもの放蕩生活からか、作品が幕府のとがめをうけそうになったからなの
か、借金のきつい取り立てから逃れる為なのか、と様々に云われていますが、本当のところは、
はっきりしていません。
では、浦賀を隠れ住む所としたのはなぜでしょうか。これは、北斎の母と姻戚関係があったと
云われ浦賀で廻船問屋や船宿を営んでいた倉田屋が、その謎を解くキーであることが想像できます。
さて、浦賀での生活振りですが、浦賀から江戸の書店(このころの書店は出版社と兼業して
いるところが多い)への手紙でそれを知ることができます。
天保6年正月のものは「御祝儀申上げます。門も多く御座りますから、また永日ヘヘエヘエ
サヨフナラ、ハイハイ」と新年の挨拶を茶花しているところから始まり、2月の初旬に絵具や紙
などがなくなってきたので、一人で密かに上京することを予告し、去年の暮れのありさまを
「衣類等手当行届も申さず候て、七十六才の老人、布子一ツにて寒中を過し申候」とあり、
冬物の衣類の準備ができず、七十六歳の北斎は、木綿の綿入ひとつで冬を過ごした様子か
ら、きびしい生活を窺い知ることができます。
しかし、作画に対する意欲は「さりながら未だ腕はヨンヂリとも仕らず、ますます出精仕り候て、
いよいよ上手に相成り度候、夫のみ楽みまかりあり候」と、腕の絵を描き、ヨンヂリとしていない
とは、江戸時代の言葉で、ますます上手になるように努力することが楽しみであるといっています。
2月の手紙には、浦賀で仕上げた「絵本唐詩選」の三丁半(7ページ)分の代銀四十二匁
のうち過借の一匁五分を差し引いたものを使いの者に渡してくれと頼みこんでいます。
この時代の代銀四十二匁は、小判一両の4分の3にあたり、決して大金でないのに、これだけ
頼んでいるところをみると、収入の道もこれだけのようです。
そして、この手紙の最後のところに「浦賀旅人、画狂老人」と署名されています。
これ以後、北斎は好んで「画狂老人」の号を使用するようになり、名も三浦屋八右衛門と名
乗るようになります。
では,浦賀のどのあたりに住んでいたのでしょう。実は北斎が住んでいたのは、内川新田の
なかの牛島という所なのです。浦賀はこの当時大変にぎわっていたところで、江戸との往来も
激しく、また多くの文化人が来訪して来ますから、浦賀の町の中では隠れ住むことができな
かったのでしょう。
北斎の浦賀潜居は、吉井真福寺の観音堂の天井に北斎風の絵を残し、たぶん本人自身は
北斎の弟子にでもなった気分でいたでありましょう。
地元の画家、藤木黄山でさえ、当の北斎が目と鼻の先に住んでいるを知らずにいたようなのです。
それにつけても、辛苦に満ちた浦賀での生活は、残りの生涯のワンステップになったことは
間違いなさそうです。

◎横須賀南西ロータリークラブ創立25周年記念ゴルフ大会のご案内
月日・場所
平成14年4月25日(木)
葉山国際カンツリー倶楽部
時間
午前9時01分 エメラルドコースOUTスタート
(5組、キャディー及び乗用カート付)
午前8時30分までにクラブフロント前に集合
競技
18ホール新ペリア方式(ダブルパー迄)
ドラコン、ニアピンは全てのロング及びショートホール(重複獲得可)
スルー・ザ・グリーンはオール6インチ、リプレース可。
パットは1グリップ以内、OK可。
その他はコースのローカルルールに準ずる。
組合せ
1組 永井 不士男 森        勇人 小山田 仁己 片山    軍二
2組 鈴木   孝一 西田    金忠 藤原    康平
3組 井上    祐一 浅田    力造 嘉山    照正 宮本    清志
4組 藤田   武 後藤    和司 高田    浩伸
5組 綿谷   透 但田    浩二 藤岡    克熙
賞品
優勝、準優勝、三位、四位、五位、七位、十位、BB、BG、ドラコン、ニアピン
参加賞
6  会費
無料。
但し、ゴルフ場でのプレー費・飲食費は各自負担。
その他
競技終了後、午後4時ごろより、イタリアンレストラン「ぐーるマン」にて
成績発表及び小パーティを行います。

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