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正史三国志を読んだ方はこの中に一人もおられないと思います。私も解説書を読んだだけです。ごく一部(魏志倭人伝)を除き、日本語に訳されておりません。テレビ・映画などで観ている物語は別のもので、三国志演義・三国演義で小説三国志とも呼ばれ、正史とは全く違う世界となっております。しかし、大きな流れについては変わっていません。「曹操」を悪人、「劉備」「関羽」「張飛」「諸葛亮」を善人で正義が勝つということで、「劉備」が魏の「曹操」を倒して天下をとると言う形にはなっていません。
エピソード等は極端に言うと、すべてデタラメです。日本の太平記に似ていると思います。天下を取った足利尊氏を悪人、敗けた楠正成を善人にしています。
三国志演義は、中国の明代に書かれた、後漢末・三国時代を舞台とする時代小説・通俗歴史小説である。著者は定説をみず、施耐庵あるいは羅貫中の手によるものと伝えられてい
ます。「羅貫中」作とは「羅貫中」が書いたものを翻訳者が翻訳したという意味であろうと思います。
「三国志」とは魏(ぎ)魏国志、呉(ご)呉国志、蜀(しょく)蜀国志の三国が争覇した、三国時代の歴史を述べた歴史書です。
後世、歴史書の『三国志』やその他の民間伝承を基として唐・宋・元の時代にかけてこれら三国時代の三国の争覇を基とした説話が好まれ、その説話を基として明の初期に羅貫中らの手により、『三国志演義』として成立
しました。 |
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正史とは正当な歴史、時の王朝が公認した歴史と言えます。 |
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以下、出典:ウィキペディア |
紀伝体 |
中国における歴史叙述の一形式。司馬遷が『史記』において創始、班固の『漢書』が継ぎ、歴代の正史はみなこの形式を踏襲する。本紀・列伝・表・志などよりなる。本紀(ほんぎ)は帝王の事跡、列伝は主要人物の伝記と外国の記事、表は年表および世系表、志は社会、制度、文化など各般のことをしるす。 |
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司馬談 (しばだん) |
中国前漢時代の太史令。姓は司馬氏、名は談。泰の武将司馬靳の子孫、司馬昌(司馬靳の孫)の曾孫、司馬無沢の孫、司馬喜の子、『史記』
(中国の正史の始まり)の著者の司馬遷の父。 |
司馬遷 (しばりょう) |
中国前漢時代の歴史家で、『史記』の著者。姓は司馬。名は遷、字は子長。周代の記録係である司馬氏の子孫で、太史令の司馬談を父に持つ。太初暦の制定や、通史『史記』の執筆などの業績がある。 |
班固 (はんこ) |
中国後漢初期の歴史家、文学者。字は孟堅。班超、斑昭の兄。班勇(班超の三男)の伯父。「漢書」の編纂者として一般に知られるが、文学者としても「両都賦」などで名高い。父班彪も歴史家であり、班固に先立ってすでに65編を編纂していた。班固は勅令により、父の業績を引き継ぎ、漢書をほぼ完成させたが、永元4年(92年)、和帝は竇憲一派の逮捕を命令し、班固もまた竇一族の娘を娶っていたため、この事件に連座して獄死した。その後、未完の部分は妹の班昭が完成させた。 |
范曄 (はんよう) |
中国魏晋南北朝時代の南朝宋の政治家・文学者・歴史家にして『後漢書』の作者。 |
太宗(唐) (たいそう) |
唐朝の第2代皇帝。高祖李淵の二男で、隋末の混乱期に父の李淵を補佐して主に軍を率いて各地を転戦、群雄を滅ぼし、後に玄武門の変にて兄の李建成を殺害し皇帝に即位した。貞観の治と言う、唐王朝の基礎を固める善政を行い、中国史上最高の名君の一人と称えられる。 |
陳寿 (ちんじゅ) |
三国時代の蜀漢と西晋に仕えた官僚。字は承祚(しょうそ)。『三国志』の著者である。自身の伝は『晋書』にある。 |
曹操 (そうそう) |
中国後漢末の武将、政治家。詩人、兵法家としても業績を残した。字は孟徳(もうとく)、幼名は阿瞞また吉利。沛国譙県(現在の安徽省亳州市。また河南省永城市という説もある)の人。 後漢の丞相・魏王で、三国時代の魏の基礎を作った。廟号は太祖、謚号は武皇帝。後世では魏の武帝、魏武とも呼ばれる。
三国志演義ですりこまれた曹操のイメージを変えて下さい。曹操は人を求め、人を使うのに長けていた。人材を武器として考えていた。
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荀ケ (じゅんいく) |
中国後漢末期の政治家。字は文若(ぶんじゃく)。諡は敬。『三国志』魏志、及び『後漢書』に伝がある。豫州潁川郡潁陰県(現河南省許昌市)の人。若くして「王佐の才」とも称揚され、後漢末の動乱期においては、後漢朝の実権を握った曹操の下で数々の献策を行い、その覇業を補佐した。しかし、曹操の魏公就任に反対した事で曹操と対立し、晩年は不遇だった。
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華歆
(かきん) |
中国後漢末期から三国時代の魏にかけての政治家。字は子魚。青州平原郡高唐県(山東省禹城市)の人。当初孫策・孫権に仕え、後に魏の重臣となった。子は華表・華博・華周。弟は華緝。孫は華澹・華嶠。曾孫は華軼。また、駱統の生母を側室とした。『三国志』魏書に伝がある。
着ているものは粗末で、曹丕が家族の分まで作り送ったとされている。 |
張繍 (ちょうしゅう) |
中国後漢末期の武将。叔父は張済。子は張泉・女子一人。涼州武威郡祖詞ァ(現甘粛省武威市靖遠県)の人。 |
丁儀 (ていぎ) |
弟と共に曹植に仕えた。丁儀は文才に優れており、曹操からもその才能を評価され、清河長公主(曹昂の同母妹)を嫁がせようともいわれた。しかし当時、太子であった曹丕が「丁儀の容貌は斜視(眇=すがめ、片目が小さいこと)なので、そのような醜い男の妻になっても姉上がお気の毒です。この際、姉上には子林(夏侯楙)に嫁いでいただくのがよろしいでしょう」と縁談に反対した。このため曹操も頷き、丁儀と娘の縁談を破談にした。 だが曹操は、後に丁儀が改めて有能だと分かると「やはり娘を丁儀に嫁がせるべきであった」と、大いに後悔したという。このような経緯から、丁儀と曹丕は犬猿の仲になってしまった。そのため曹操の晩年に曹丕と曹植による後継者争いが起こると、丁儀は曹植擁立に奔走し、曹丕を太子から廃そうと何度も画策した。 220年に曹丕が王位に即位すると、弟と共に逮捕されて処刑された。だが、文才に富んでいた彼の死は、多くの人から惜しまれたと言う。 なお、陳寿は『三国志』の編纂過程で丁儀の子孫に原稿料を要求し、それを断られたため丁儀の伝記を書かなかった、という逸話が残っている。ただしこれは、丁一族の男子が曹丕に族滅させられてしまっているため疑わしい。
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曹昂 (そうこう) |
生母の劉夫人が早くに亡くなったため、劉夫人の次に曹操の正室となった丁夫人に育てられた。20歳で孝廉に推挙された。 197年、曹操は張繍の降伏を受け容れたが、その際に張繍の叔父である張済の未亡人と密通した。これを知った張繍が激怒したため、曹操は密かに張繍殺害計画を立てた。しかし、それに気づいた張繍は先手を打って、宛にいた曹操に奇襲をかけてきた。襲撃された曹昂は父を無事に逃すため、自らの馬を差し出した(『三国志』魏書武帝紀注『世語』)。このため曹操は無事に逃れる事ができたといわれる。一方の曹昂は張繍軍の攻撃を受け、曹安民や典韋らとともに戦死してしまった。 曹昂の死を知った丁氏(丁夫人)はこれを恨み、自ら離別して実家に戻った。曹操が丁氏に対し深く謝罪したが、丁氏は二度と曹操の下へ戻ろうとしなかった。 魏王朝成立後、豊の悼公と諡された。 『三国志』の注に引く『魏略』によれば、弟の曹丕(文帝)は即位後に「兄の子脩(曹昂)が生きていても限界があっただろうが、(天才的な才能の持ち主だったと言われる)弟の倉舒(曹沖)が生きていたなら、わしは主となって天下を治められなかっただろう」と語ったという。 後に豊の悼王、豊の愍王と諡を改められた。子がなかったので、甥の曹琬(曹均の子)がその後を継いだ。
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曹丕 (そうひ) |
曹操と卞氏(武宣皇后)との長子として生まれ、8歳で巧みに文章を書き、騎射や剣術を得意とした。初めは庶子(実質的には三男)の一人として、わずか11歳で父の軍中に従軍していた。建安2年(197年)に曹操の正室の丁氏が養子として育て、嫡男として扱われていた異母長兄の曹昂(生母は劉氏)が戦死すると、これがきっかけで丁氏が曹操と離別する。次兄の曹鑠も程なく病死し、一介の側室でしかなかった生母の卞氏が曹操の正室として迎えられた。以後、曹丕は曹操の嫡子として扱われるようになる。やがて曹丕は文武両道の素質を持った人物に成長することとなった。『三国志』魏書によれば、曹丕は茂才に推挙されたが、出仕しなかった。 |
曹植 (そうしょく) |
曹操の五男として生まれる。 曹植は礼法に拘泥せず、華美を嫌い、酒をこよなく愛する、闊達さと奔放さを合わせ持った、天才肌の貴公子であった。ただし少々それが行き過ぎてしまうこともあり、天子の専用通路を勝手に通ってしまい、曹操を激怒させてしまったこともある(このことは相当な禍根となったようで、後々まで曹操はそれを嘆いた)。詩人としてのみならず、実際には父の遠征に従って14歳から従軍し、烏桓遠征・潼関の戦い・張魯征討など数多くの戦役に従軍しており、兄たちと同じく戦場で青年時代を送っている。戦場の空気に馴染んでいたとみられる。 この頃より詩・賦の才能がさらに高まり、さらに曹操の寵愛は深くなる。同時に、この頃から曹丕との後継争いが勃発する。彼らよりもそれぞれの側近たちの権力闘争といった様相が強かったが、建安22年(217年)に正式に曹丕が太子に指名されると、以降は曹植と側近者たちは厳しく迫害を受けることになった。 |
賈詡 (かく) |
若い頃は評価されることがほとんどなかったが、漢陽の閻忠からは「張良・陳平のような智謀の持ち主」と高く評価された。 孝廉に選ばれ郎に就任するが、病気のため辞職した。帰郷の道中、漢の支配に従わない氐族の集団に遭遇し捕らえられた。同行していた数十人が全て殺されたが、賈詡は当時異民族に威名が知られていた太尉の段熲の親族と偽り、「私を殺した後、手厚く葬ってくれれば、我が家が必ず遺体を手厚く引き取ることだろう」と遠回しに脅迫した。氐族側はそれを聞いて驚き、賈詡を解放した。
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陳琳 (ちんりん) |
はじめ何進に仕え、主簿を務めた。何進が宦官誅滅を図り諸国の豪雄に上洛を促したとき、これに猛反対している。何進の死後は冀州に難を避け、袁紹の幕僚となる。官渡の戦いの前、袁紹が中原全土に配した曹操打倒の檄文を書いた。曹操は、この檄文を読み「ここに書かれた曹操という人物像を考えると、読んだわし自身も怒り心頭に発する」と評している。 鄴城が陥落し、曹操の前に引き立てられた際、陳琳は曹操にこの檄文を読まされた。その内容は曹操のみならず、その父や祖父までをも痛烈に批判するものだったが、曹操はこの檄文を誉めた上で「なぜわしの祖父や父まで辱めたか」と尋ねた。陳琳は「引き絞った矢は射ぬわけにはいきませぬ」と答えたため、曹操から許されたという逸話がある。 その後は曹操に仕え、建安22年(217年)に疫病に罹って病死した。曹丕は彼のことを「文章は雄健だが、やや繁雑である」と評している。 唐の呉融は「陳琳墓」なる詩を作り(全唐詩巻685)、「筆先をほしいままにし自分の利益を得たが、あの世でどの面を提げて袁公にまみえるのか」と、その変節を非難している。
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劉夫人 (りゅうふじん) |
曹操の正室。子は曹昂・曹鑠・清河長公主。 早くに亡くなった。その後は丁夫人が曹操の正室として迎え入れられ、劉夫人の子を養育するようになった。特に曹昂は、丁夫人から我が子のように可愛がられた。
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丁夫人 (ていふじん) |
中国後漢末期の人物。曹操の妻。曹昂の育て親。 曹操の正室劉夫人が亡くなった後に迎えられた。子供に恵まれなかったため曹昂を大変可愛がり、曹操の跡継ぎとして育てた。しかし、宛城で曹操が張繍から奇襲を受けた際に、曹昂は曹操を逃がし、自らは戦死してしまった。 そのため丁夫人は悲嘆に暮れるようになり、事あるごとに「私の子を殺しておきながら、平気な顔をしているとは」と曹操に言っては、節度もなく号泣した。曹操はこのような態度を不快に思っていたが、丁夫人を愛していたため、里に帰して丁夫人の気持ちが収まるのを待った。しばらくして曹操は丁夫人の家まで行き、謝して宥め、共に帰るように促した。しかし丁夫人はこれを拒み、二人はそのまま離縁することとなった。 その後、曹操の側室だった卞氏が正室になったが、卞氏は時候の挨拶を欠かさず、丁夫人に贈り物をしたり、曹操不在の時には家へ招き入れたりした。以前、丁夫人は身分の卑しい卞氏に辛くあたっていたにもかかわらず、卞氏が自分の世話をしてくれる様子に感謝したという。 曹操は後年、「もし霊魂というものがあって、曹昂に『私の母はどこにいますか』と尋ねられたなら、予は何と答えたらよいのであろうか」と語ったといわれる。
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卞皇后 (べんこうごう) |
元は歌妓であったが、20歳のときに当時譙にいた曹操に迎え入れられ側室となった。丁夫人が廃されると正室になり、曹丕・曹彰・曹植・曹熊を産み、息子たちの異母兄弟も養育した。華美を好まない倹約家で慎み深く、節度を重んじた。 名門の出である丁夫人からは軽蔑されていたが良く仕えた。丁夫人が曹操と離縁した後も、時候の挨拶を欠かさないなど配慮を続けたため、やがて丁夫人からも感謝されるようになった。建安24年(219年)、王后に立てられ、曹操没後は王太后と号した。曹丕の即位に伴い皇太后となり、永寿宮と称した。曹叡が即位すると太皇太后になった。太和4年(230年)に亡くなり、高陵(曹操の墓)へ葬られた。
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甄皇后 (しんこうごう) |
代々2千石の高官の家柄であった。三男五女の末女にあたり、兄や姉の名が残っているものの、彼女自身の名は記されていない。幼い頃から聡明で、乱世にあって家族に慎ましやかな生活を説くなど、謹厳な性格の持ち主であった。 初めは袁紹の次男袁煕の妻だった。曹操が冀州を攻め落とした時、曹丕(後の文帝)は真っ先に袁紹の屋敷に乗り込んだ。その際に甄氏を見初めて妻にしたという。曹丕に寵愛され、曹叡(後の明帝)と娘の東郷公主(早世した)を産んだ。しかし、曹丕の寵愛は次第に薄れていき、郭貴嬪(後の郭皇后)や李貴人・陰貴人に移っていった。更に山陽公(後漢の献帝)の二人の娘たちが入内したこともあり、悲嘆した甄氏は曹丕に対して恨み言を述べた。これが曹丕の勘気に触れ、黄初2年(221年)6月に死を賜った。
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郭皇后 (かくこうごう) |
幼い頃に両親を失い家が没落したため、やむなく召使として働いていたが、魏公となった曹操に見出されて東宮の女官となり、その智から曹丕の寵愛を得て、やがて妾となった。曹丕に様々な献策をし、曹丕の立太子に尽力したという。 曹丕の魏王即位に伴い夫人、魏帝即位の際は貴嬪となり、黄初3年(222年)に皇后に立てられた。 曹丕が郭氏を皇后に立てようとした際、没落して低い立場だったために群臣の反対を受けたが、曹丕はこれを押し切って皇后に立てた。郭氏はそうした経緯もあってか、身内にある程度の便宜を図ることはあったが、それ以上は堅く戒め「嫁を貰うならば、同郷で家柄の釣り合う家から貰うべきです。権勢を利用して、無理に他国(ここでは諸侯の封土を指す)の女性を娶ってはいけない」、「それぞれ自戒して、処罰を受ける人間とならないようにしなさい」といった言行を残している。
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毛皇后 (もうこうごう) |
魏の明帝曹叡の皇后。諡号は明悼皇后(めいとうこうごう)。司隷河内郡の出身。父は毛嘉(典虞車工)。弟は毛曾。 黄初年間、選ばれて平原王曹叡(後の明帝)の府邸に入り、側室となった。曹叡の寵愛を受け、府邸の出入りには曹叡と同じ輿に乗ることを許されたほどであった。明帝が即位すると貴嬪に叙され、本妻の虞氏が廃位された。太和元年(227年)に皇后となった。 後に明帝の寵愛が郭氏に移ると、毛皇后は顧みられなくなっていった。景初元年(237年)、明帝は才人以上の女官・皇妃らを召して宴を開いたが、毛皇后だけには知らせず、また宴のある事を秘するよう、侍人に厳命した。自分だけ除け者にされたことを知った毛皇后は、翌日「昨日、北園に遊宴す、楽しからんや」と言った。明帝は侍人らが事を洩らしたと思い、十数人を殺害し、毛皇后も賜死となった。 曹叡は毛氏に「悼」と諡し、皇后として愍陵に葬らせた。
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