私の履歴書 |
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東京電力西火力事業所 |
横須賀火力発電所長 |
小関 正剛 |
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(プロフィール) |
・昭和32年4月10日 酉年 牡羊座 満52歳 |
・川崎市中原区在住(最寄り駅:JR南武線 平間駅) |
・家族:妻、長女、長男、次女 |
(北海道編) |
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・北海道釧路市白糠町に生まれる |
・家族は父、母、弟、私の4人 |
・父は福島県福島市飯坂の出身だが、20歳で北海道に渡り、 母と知り合い、結婚。 |
・父は新白糠炭鉱(既に閉山)で働き、我々は炭鉱近隣に居住。 冬の釧路は極寒で氷点下10℃にもなる。 しかしわたしも含め子どもは元気で外で遊びます。
炭鉱にはボタ山があり自然発火で周辺は暖かく、 冬の格好の遊び場でした。 |
・白糠は漁港でもありましたので港に陸揚げされた魚介類を運ぶ |
トラックがカーブで落とす蟹や魚を拾ってバケツに入れ、家に運び 食べたものでした。 |
・4歳の時、両親が子どもの将来の事を考え、神奈川県へ引っ越す。 |
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(小学校編) |
・神奈川県平塚市に落ち着く。両親は2回引っ越したが、現在も平塚在住。 |
・オリンピックの年、昭和39年に平塚市立富士見小学校に入学。 オリンピックは白黒TVで見た、印象的だったのは、男子マラソンの 君原選手と
円谷選手。それと男子体操に重量挙げの三宅選手。 純粋に「頑張れニッポン!」と叫び、興奮していた。 |
・学校が終わると今のように家の中でゲームなどほとんどやらずに、 一日中外で遊んでいた。ビー球、めんこ、缶蹴り等遊ぶネタにはまったく 不自由しなかった。 |
・4月生まれのおかげか、体は大きく6年間を通じてクラスで身長は 3番以内で
運動成績も上位にいた。 |
・6年生の時、卒業式を行うはずの講堂が全焼した。 生徒全員が校庭に避難し、 メラメラと燃える講堂を怯えながら眺めていた。
泣いている女子生徒もいた。卒業式は入学予定の中学校の 体育館で行った。 |
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(中学校編) |
・昭和45年4月、平塚市立春日野中学校入学。 |
・平塚市は当時、小学校と中学校は1対1だったので、 まったく同じ仲間
での進学であった。 |
・当時TVでは、バレーボール物で「サインはV(主演:岡田可愛、 范文雀他)」、
「アタックbP」が流行っていた。 流行に乗せられ易い私は、部活はバレーボール を選び、中高のバレーボール漬生活がスタートした。 |
・中学校のバレーボール成績は、女子は市で優勝、男子は下位クラスで 芳しくなかった。 |
・授業はノートをあまり取らず、教科書に書き込んでいた。 自宅での勉強は1時間(?)ほど、親、特に母親がキレないレベルに ほどほどに
やっていた。 でも運良く成績は学年でまあまあであった。 |
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(高等学校編) |
・昭和48年4月、神奈川県立平塚江南高等学校入学。 |
・元女子高で1学年11クラス約400人の進学高校。 |
・現代国語、古文が苦手だったので必然的に理工系に進んだ。 |
・バレーボールは真剣に、日曜日以外毎日やった。 部活を終えて家に着くと玄関で夕食まで一眠りの日が多々あった。 |
・高校2年の時、県で4位となり関東大会へ進み、3回戦で前年度 全国優勝の
「古河第一高校」に敗れた。 大会出場が決まり、キャプテンが「皆、坊主刈りに しよう。その方が強そうに見える」と提案した。私も含め反対派もいたが、 結局3年生が話し合って、「スポーツ刈」ということで決着した。 今、写真を見るととても懐かしく、またうれしく感じる。 |
・3年夏以降、受験勉強に力を注いだ。予備校の模試、通信教育等、人生で 二番目に勉強した期間。 当時は国立大学に一期校、二期校があり、私立と合わせて4校受験した。 二期校と私立1校に合格。 |
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(大学編) |
・昭和54年4月、横浜国立大学工学部電子情報工学科入学。 |
・本大学は神奈川師範学校、神奈川経済専門学校、 神奈川工業専門学校等が
統合され、昭和24年に創立される。 学部毎3地点に分散していたが、私が入学した昭和51年に 現在の保土ヶ谷区常盤台に集約した。 ただし、工学部は京急の弘明寺から数年かけて順次の移転、 電子情報学科は運良く初年度から新キャンパスであった。 |
(修学編) |
・一般教養科目は女子が多い教育学部学生と同じ授業を積極的に取った。 特に心理学が面白かった。 |
・理科系で興味深かったのは、物理学を相対性理論というどちらかと言うと 理屈っぽい学科。電力会社に就職したが、電気理論は苦手だった。 |
(サークル編) |
・気の合った友人の誘いでジャズ研究会に入り、ドラムに挑戦したが、1年の 秋の定期演奏会で司会役を担当し、いつの間にか司会が本職となり、 「幻のドラマー」と呼ばれることになった。 |
・3年の時、友人5人で「アウトドアスポーツ同好会」を創立し、テニス、 スキー、
スキューバダイビング、ウインドサーフィン等を楽しむ。 |
・高校のバレーボールつながりで、冬は栂池高原のスキー宿でバイトを しつつ、スキー三昧。 |
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(就職・進学編) |
・4年の6月、周りは就職組と大学進学組にはっきり分かれていた。 私は就職するなら電力会社と心は決まっていたが、本大学の就職は 当時推薦がほとんどであり、推薦枠は私より成績優秀者で埋まっていた。 電力会社へ就職するには進学し、2年後にトライしかなかった。 そこで8月末の試験を目指し、2ヶ月間の猛勉強がスタートした。 この時が人生で一番勉強した。大学生活最後の夏なのに、合格しなければ すべてが「パー!」、「クソッ!!」と思いつつ、がむしゃらでした。 幸いに試験に合格し、大学院に進学となりました。 |
(大学院編) |
・昭和55年横浜国立大学大学院電気工学研究科入学 |
・遮断機の大家でいらっしゃった中西邦夫教授の下で遮断機の動特性に ついて研究を行い、出来の良い学生ではなかったが、研究室の環境、 コミュニケーション向上には寄与したと思っている。 |
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(会社編) |
・昭和57年4月、東京電力(株)入社 横浜火力発電所配属。 |
・いよいよ社会人としての生活のスタートを横浜市鶴見区大黒町でスタート。 |
(横浜火力編:昭和57年4月〜昭和59年9月) |
・昭和37年東電初の油焚専焼火力として運転開始、 総出力122万5千kW。 現在はACC(改良型コンンバインドサイクル発電)を増設し、 総出力332万5千kW。 |
・発電所の運転業務を3交替で行う当直勤務に就く。 制御室に係長以下8名で2台のプラントを運転していた。 パトロールも夜勤も夜食作り、寮生活も何もかもが初めてで楽しかった。 発電所業務は365日、24時間勤務、年末年始が勤務に当たると、 時間給が
数割り増しとなり、 うれしかったこととボイラー屋上から見た初日が印象的。 |
(姉崎火力編:昭和58年10月〜昭和60年11月) |
・昭和42年、東電初の60万kW(超臨界圧貫流ボイラー)として運転開始。 総出力360万kW。石炭を除く東電の火力発電燃料(重原油、ナフサ、
LNG、LPG)をすべて使用可能。 |
・一年、発電当直後、メンテナンス部門の工事課電機Gへ異動し、 初の日勤勤務。 |
・勤務時間以外で当直勤務との一番の違いは、東電以外の組織、 人との業務が多いこと。若輩ながら東電の代表、窓口としての意識を 持つように注意した。 |
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(東扇島火力建設所属:昭和60年12月〜平成3年3月) |
・昭和59年東電初の自前LNG基地として営業開始、その後昭和62年に 100万kWのLNG専焼1号機が営業運転開始、現在総出力200万kW、 3火力発電所にLNGを送り出している。 |
・初めての建設所、苦労は大きく、多いけれど、 物を創ることの楽しさを心から
味わった。 関係者は互いの立場で議論と策略を行うが、目的は一つ、正しい 方向で決着した。プロジェクトが達成した時は、全員が一つになり、 乾杯をしていた。 |
・現在の妻と知り合い、平成元年10月14日挙式。 |
(南横浜火力編:平成3年4月〜平成7年6月) |
・昭和45年、東電初のLNG専焼火力として営業運転開始。 総出力115万kW。 |
・従来の発電所の中央操作室は、屋外が見える窓が無く、日勤者の職場 (業務本館)とは離れ、設備のあるタービン本館にあった。 この頃、社会的に
「人間性」、「アメニティ」という言葉が重視されており、 閉鎖的な中央操作室の見直しが各電力で検討されていた。 そこで「人にやさしく、海が見える中央
操作室」をコンセプトとし、 事務本館と渡り廊下で繋がる建屋を新設し、 そこに中央操作室を新設し、自動化を実施した。 |
(鹿島火力編:平成7年7月〜平成9年2月) |
・昭和46年、重油専焼火力として営業運転開始。昭和49年、50年と 東電初の100万kWの5、6号機を完成。 総出力440万kW東洋一のマンモス火力
発電所となる。 |
・初の単身赴任。コンビナート地区は全企業一斉の「定期検査」があり、 その時期数ヶ月は作業関係者が何千人と宿泊するため、臨時の宿、 飲食街が出来るのを見て、驚いた。 |
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(本社火力部編:平成9年2月〜平成14年6月) |
・初の本社勤務、火力部火力エンジニアリングセンター設備技術G。 |
・火力部門の技術の総元締め、専門集団。前半は電気技術を担当し、 発電所のトラブル支援、基準・マニュアル作り、社外の各種委員会へ参加。 後半は設備技術GMとして、メンテナンス技術の取りまとめ。 |
・5年半、帰りはほとんど24時最終電車。 |
(東火力事業所編:平成14年7月〜平成18年6月) |
・千葉県にある5火力発電所を統括する東火力事業所の保修部長として 4年間
在籍。 |
・着任一ヶ月後の平成14年8月から従来発電所に所蔵していた メンテナンス要員
を保修部所属とし、 工事量に応じて駐在させる運用に変更。 これの導入、定着、意見集約、組織改革に追われた4年間であった。 |
(横浜火力編part2:平成18年7月〜平成21年6月) |
・入社以来24年ぶり2度目の赴任。役職は副所長。 |
・入社時と比較すると所員数は50%位。 |
・着任したら、入社時勤務した4号設備の除去工事真っ最中で、感傷的に なると同時に時の流れを実感。新旧設備が入り混じり、ある面では文化も 2種ある複雑な運営を要求される。 しかし、難しいがゆえにやりがいを感じた。 |
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(横須賀火力編:平成21年7月〜現在に至る) |
・昭和35年1号機26万5千kWが東電初のクロスコンパウンド機として 営業運転開始。昭和45年の6号機の運転開始により、総出力263万kW と
当時世界最大の火力発電所となる。 |
・初めての赴任、発電所長となる。 |
・周囲の海、山の景観がすばらしいのにびっくりした。 このようにすばらしい場所
に発電所を設置させていただき、
約50年も運転させていただいていることに感謝するとともに、 設備産業の事業者として地域、地元の理解がなければ、 事業継続が出来ないと気持ちを新たにした。 |
・地元地域団体、関係自治体、ロータリークラブ(RC)、商工会議所、 近隣企業等、他の火力発電所と比べると多くの組織と係わっている。 特にRCの「奉仕の精神」は地元と共存していく一企業として共感している。 今後も「四つのテスト」を常に意識するように努めて行こうと思う。 |
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ご静聴ありがとうございました。 |
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東京電力(株) 横須賀火力発電所 |
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所長 小関 正剛 |
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