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あります。実戦経験の豊富さにおいてはこの人の右に出る人はいないでしょう。この人の場合も「永倉」と書いたり |
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時には「長倉」と表示しています。 |
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ご存知の通り新選組は会津藩お預かりとして京都の治安を守るために活動しました。言ってみれば、新選組の |
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大スポンサーは会津藩であり、新選組は会津藩の別働隊でありました。 |
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新選組が会津藩に提出した公式文書をみても時には「撰」、時には「選」の字を使い一定していません。 |
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今皆様の所へ回覧しているものがありますが、これは土方歳三と沖田総司の書状であります。 |
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沖田の書状が2通、土方の書状が1通です。沖田の書状を見比べて下さい。一方は「総司」署名し、 |
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一方は「総二」としてあります。一般的に沖田は「ソウシ」と呼ばれていますが、「総二」はどう読んでも |
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「ソウジ」としか読めません。このような次第で沖田の名前は「ソウシ」なのか、「ソウジ」なのか |
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よく分かりません。 |
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ようするにこの頃は公式の文書に隊の名前を記載する場合ですら、一定の表示を |
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しなかったようですし、個人の名前意味さえ通じれば、それで十分ということだったのでしょうか? |
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現代の我々の感覚ではどうもよく理解できません。 |
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今、回覧している土方の書状は文久三年八月の政変の時、御所の警備や三条縄手の戦いに使用した鉢金を |
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記念として義兄に送った時のものです。 |
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鉢金の裏には「盡忠報国志(忠義を尽くし、国の恩に報いる)土方義豊」とあり、鉢金の表に数条の刀傷が残り |
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激戦を物語っています。書状を見ていただき気づかれたかとも思いますが、その簡素なる行間には、みなぎる |
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気迫が込められているようです。そして用件のみを実に簡潔にきしています。彼の書状は用件を箇条書きに |
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したものが多いと言います。 |
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土方歳三と言えば新選組の副長として、捕縛した勤皇の志士を天井から逆さ吊にして、足の裏に五寸釘を |
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突き刺し、そこに蝋燭を立て自白に追い込み池田屋を急襲、明治維新を一年遅らせたとも言われています。 |
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そして彼は組の規律を守るために、かの有名な(多くの隊士はこれが初めて発表された時、いかに恐れ |
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おののいたことか)局中法度を作りました。それは次のようなものです。 |
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士道に背くまじきこと |
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局を脱することを許さず |
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勝手に金策致すべからず |
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勝手に訴訟(外部)取り扱うべからず |
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私の闘争を許さず |
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右条々相背き候者は、切腹申しつくべく候なり |
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この局中法度に触れて切腹させられた隊士はどれだけいたのか。私には分かりませんが、大変な数であった |
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ことでしょう。 |
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こうして見ると土方という男は冷血極まりない恐ろしい人物ですが、意外や意外、俳句を嗜むという一面も |
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あるのです。その彼の俳句が上手いのか下手なのか私には分かりませんが紹介してみましょう。 |
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白牡丹 月夜月夜に 染めてほし |
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願う事 あるかも知らず 火取虫 |
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公用に 出ていくみちや 春の月 |
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水の北 山の南や 春の月 |
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春の草 五色までは 覚えけり |
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俳句と言うのは、5・7・5の中に簡潔に表現するものですし、箇条書きの書状にしても何か土方の性格を |
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示しているような気もします。 |
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次に沖田総司の手紙ですが、一通は新年の挨拶状で故郷の世話になった方々に宛てたものです。 |
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関係する方々への伝言も依頼し、律儀な一面があったようです。 |
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そして相手を気遣い、自分が元気でいること、上洛し、新たに入隊した近藤の親族の様子等を知らせ、 |
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心優しいところも感じます。 |
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沖田は幼い時から近藤の道場に入り、土方等と毎日稽古場で汗を流し、剣一筋で生活してきたので |
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しょうから、生まれ育った故郷への思いもひとしおだったのかも知れません。 |
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