第1198回例会
2002年8月19日(月)
◎合唱 「それでこそロータリー」
◎会長報告 *ガバナー事務所より、「規定審議会提案提出」のお願い受領。
*ガバナー事務所より、会員増強計画の問い合わせ受領。
◎幹事報告 *横須賀RC、横須賀北RC、横須賀西RCより、週報受領。
*米山より、寄付金納入明細受領。 

出席報告

会員 出席 欠席 本日の出席率 前週メーキャップ前  前週メーキャップ後
  38名 26名 12名 68.42% 68.42% 68.42%
◎ニコニコBOX
掛田  侑男君 本日の卓話 鈴木立也会員、よろしくお願い致します。
宮本  清志君 鈴木立也会員、本日の卓話楽しみにしています。
鈴木  弘明君 鈴木立也さん、卓話よろしくお願いいたします。
菱沼  正喜君 鈴木立也さん、本日卓話よろしくお願いします。
小山田仁己君 鈴木さん、卓話楽しみにしています。
藤原  康平君 鈴木立也会員、本日の卓話よろしく。
渡辺  佑一君 鈴木立也会員、本日の卓話ごくろうさまです。
鈴木  弘明君 栗田秀樹さん、先日の職場見学では親切な説明ありがとうございました。
永井不士男君 都合により早退させて戴きます。
10 大橋  昭夫君 横須賀の小学生男子ソフトボールチームが、7年目にして全国優勝しました。
最高の夏休みでした。

本日計 10,000円 累計 188,000
◎委員会報告
刀禰出席委員長
8月5日の第3回理事会に提出し承認された「出席に関する提案」について説明。

クラブ定款第8条(出席)、第1節(a)(6)に規定する、出席と見なす奉仕委員会の会合の条件は次の3点である。

@

委員会開催1週間以前の例会で開催趣旨、日時、場所等を発表すること。
会長、副会長、幹事を含めて担当委員会の委員でなくとも出席可。
議決権はないが、オブザーバーとしてなるべく多くの意見が有る方が良い。

A

委員会開催後の例会で委員会報告をすること。

B

出席者は5名以上のこと。

真木親睦活動副委員長
8月25日開催予定の夏季家族会の場所、時間等について再確認。

16:45点鐘、19:00お開き、ノーネクタイ。
◎卓話 鈴木 立也会員

「父の短歌からみた終戦」

終戦の月に当たり、20年位前にこのロータリーで話したことがあるが、終戦及びその当時の話をしたい。
終戦時は父が丸善株式会社の京城(ソウル)支社に赴任していたので一家6人が京城で終戦を迎えた。

父がアララギ派の歌人だったので、残された短歌を披露しながら、敗戦後帰国までの苦難、横須賀での
引き揚げ者としての一家の生活を振り返り、現在の平和な社会と対比して自分の生きる原点を見つめたい。

1.

父について
*正岡子規の門下であるアララギ派の歌人斎藤茂吉及び土屋文明に師事していた。
*大正元年生まれで平成10年1月1日に死亡した。
*高小卒後丸善洋書部へ就職し丸善の学校へ進んだ。
   昭和4年の鈴木梅吉からの辞令「手代を命ず。月給35円 を給す」が家に残っている。
   100円で家が建った時代である。
   その頃(18才〜19才)から短歌を始め、京城支社へ赴任する昭和9年頃まで短歌を続けていた。
   短歌よりも小説家や作家になりたかったようだ。
*性格は几帳面、くそ真面目、プロレタリア・前進座系であった。
*終戦間際に現地で丙種合格で通信兵として徴兵され終戦を迎えた。

2.

終戦時の思い出
*自分が長男で9才であった。母と妹が3人で下は2才だった。
   父は兵役から帰還していなかった。
   危害は加えられなかったが、家は没収されることになり家財、図書等は全部処理しなければならなかった。
*父が家に帰ってきた時、本が無いと言って泣いていたのが忘れられない。
*日本への引き上げは京城から釜山までは汽車、釜山から1万トンの興安丸で玄界灘を通り上陸した。
   石川県の母の親戚経由で15日掛かって横須賀に到着した。
   当時の京城駅は人で溢れ、汽車も予定通り来ず1週間ほど遅れてひしめき合って
   汽車に乗り釜山まで来た。
   釜山の国民学校で3日間待って興安丸に乗船した。
   8月15日の終戦から2ヶ月後の10月に日本に帰ってきた。
   船の中では食糧に不足し、他人よりおむすびをもらい妹たち4人で分けて食べたこともある。
*当時父は35〜36才だったが、横須賀の親戚を訪ねる前に、帰国までの辛苦と将来の生活方針が
   立たないため一家で自殺を考えたほどだ。
*戦後父の残した短歌に次の歌がある。
   「暁前埠頭にひしめく幾千人皆荷物を持てり持ち得る限り」
   「荒波のしぶく甲板に身を抱きて引き上げ民は群がり伏しむ」
   「己さえ生き難き世に握り飯たびる人よ永久に思う」
   「土に伏す妻子を守り丸2日我は眠らず眼をいやす」

3.

横須賀での生活について
*終戦の年の10月から、汐入の山の中腹にある父の弟の6畳と3畳の2間で親子6人の生活が始まった。
   父は米軍のベースに就職した。ドイツ語が専門だったが猛勉強して英語をマスターしベースの通訳に
   なった。
   融通が利かず生真面目だった。
   時事英語、英語研究等の雑誌を読み人種差別にも関心を持っていた。
   UHUというペンネームで英語の小説やコントを出していた。定年退職時はベース内通訳の
   第一人者だった。
*物資や食料の欠乏で苦しい時代だったが思い出に残ることもある。
   終戦の年の大晦日に、近くの小泉豆腐店におからを買うために家の者と行列したとき、100人近い人が
   並んでいたが、小さな子供は自分一人だったためか、油揚げをサービスに恵んでもらった経験がある。
   その時の人情と情けが忘れられない。

4.

終わりに
*現在の豊かな時代を迎えるまでに様々な苦難を味わってきたが、その時に受けた情けや思いやりを忘れる
   ことは出来ない。
   二つしかないおにぎりを一つくれたり、子供に対する思いやり等は強く心に残っている。
*私が長年民生委員を続けているのも、この様な経験が原点になっていると思う。
   最近の民生委員は事務能力に長けた人が多く選ばれるが、心の優しい人、弱者の人達の生活指導に
   強い意欲を持っている人でなければならないと思う。
*最近は子供たちの残酷な犯罪が増えているが、このままでは日本は駄目になってしまう。
   終戦後に私達大人が舐めた苦労をもっと話してやらなければならないと思う。
   これからの日本の子供を良い方向に進めて行くのもロータリーの使命と思う。

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