米山梅吉
 ウエスレイの教えに従って、それを実行した日本人がいます。
米山梅吉です。 米山は青山学院の第二代院長だった本多庸一の薫陶を受けており、その影響もあって
アメリカ・オハイオ州のウエスレアン大学に入学します。 メソジストの大学ですが、そこでウエスレイを学ぶわけです。
帰国後、三井銀行の常務になりますが、信託銀行を日本にいち早く導入して三井信託銀行を作ります。
彼は「新隠居論」の中で、55歳で仕事を辞めて隠居し「与える」生活に入りなさいと書き、 自ら実践しました。
三井各社を統合して「三井報恩会」を作ります。 この三井報恩会は戦前、戦後を通じて一番大きな支援団体ではないでしょうか。
米山は三井報恩会で数多くの留学生を世界に送り出すとともに、疲弊した農村の復興にも貢献しました。
かって青森県にあった西平内村には今でも記念碑が残されています。 セファランチンという薬を使って、結核の予防にも取り組みました。
そして、ハンセン病です。 米山は自らの手土産を持って、当時16ヶ所あったハンセン病の療養所を歴訪します。
何れも地の果てや孤島にある。実に不便です。そこを回った。 三井報恩会を通じてベッドを三千台寄付します。 ハンセン病院から見れば恩人です。
しかし、なぜかハンセン病の歴史にこの事実は出てこない。
彼は資材を投じて、はる夫人と一緒に青山学院に小学校と幼稚園をつくります。
今の青山学院初等部、幼稚園です。 当時は緑岡小学校、緑岡幼稚園でした。 米山とはる夫人はそれぞれ校長、園長に就任します。
(小学生への訓示) 1.礼儀正しくあれ 2.嘘をつくな
3.人に迷惑をかけるな 4.人にいいことをされたら、人に対していいことをしなさい
寄付は一切仰がなかった。
米山の子息、米山桂三の言葉によると、教職員の給料を払うために、はる夫人が質屋通いをしたと言うのです。 要するに、米山は全てを捧げた。
私は、青山学院初等科の時から、そんな米山梅吉に憧れていました。 近くで見ていましたから。
「自分も米山のようになりたい」と思った。しかし、心変わりした。挫折しました。 (米山の信託の精神は守ってきた。)
万代順四郎
 三井銀行の頭取に万代順四郎という人がいました。
戦後、公職追放解除後は自分の持ち株すべて売って、母校青山学院の復興のために寄付をし、
当時創業されたばかりで海のものともわからない東京通信工業、今のソニーの会長を引き受けた人です。
津久井浜というところに、夫人の療養のために屋敷を建てますが、特に維持費まで付けて横須賀市に寄贈(万代会館)します。
米山が伝えた伝統です。(与える文化)(人がしてほしいと思うことをその通りにしなさい)(自分は質素な生活をして、人のために捧げた)(豪華な質素)
米山は日本のロータリークラブの創設にも貢献します。
ロータリー米山記念奨学金はこれまで一万人を超える留学生を送り出している。
米山が育った静岡県長泉町には、ロータリークラブの有志によって建てられた米山梅吉記念館があって、 米山の精神を今に伝えています。(新入社員の名刺入れの箱に「あなたの名誉を守れ」と書いた。
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